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子爵



子爵(ししゃく、: Viscount [ˈvaɪkaʊnt])は、中国や近代日本で用いられた爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する[3]ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳・中国語訳にも使われる。

目次


欧州との対応


中国の子爵

西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「子」は五つある爵の下から二番目に位置づけている[4]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、子男をひとまとめにしている[5]。『礼記』・『孟子』とともに男、もしくは子男は五十里四方の領地をもつものと定義している[5]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[6]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[7]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[8]貝塚茂樹は『春秋左氏伝』を検討し、五等爵は春秋時代末期には存在していたとしたが、体系化された制度としての五等爵制度が確立していたとは言えないと見ている[9]

代においては二十等爵制が敷かれ、「子」の爵位は存在しなかった。咸熙元年(264年)、爵制が改革され、子の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[10]食邑は大国なら八百戸、五十里四方の土地、次国なら六百戸、四十五里四方の土地が与えられることとなっている[10]。その後西晋および東晋でも爵位は存続している[11]

南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[12]

主要な中国の子爵

咸熙元年の叙爵では、陳羣高柔荀彧といった魏時代の功臣の子孫が「子」の爵を受けている[13]。また羊祜もこの際に子の爵位(鋸平子)を受けている[13]


日本の子爵

華族の子爵

1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層たる大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した[14]。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、華族身分設置当初から華族内の序列付けをしようという意見があり、様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。中国の古典籍になじんでいる者が多かった当時の人々に違和感がないものだったと考えられる[15]

1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ[16]、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり[17]、同年7月7日に発せられた華族令[18][注釈 2](明治17年宮内省達、明治40年皇室令第2号)と華族授爵ノ詔勅[19]により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。なおこの際に旧華族にあった終身華族(一代限りの華族)の制度は廃止され、華族はすべて世襲制となった[20]

子爵は公爵侯爵伯爵に次ぐ第4位(従三位[21])に位置づけられた。男爵の上位である。叙爵内規では子爵の叙爵基準について「一新前家ヲ起シタル旧堂上 旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家 国家二勲功アル者」と定めていた[22]

1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員勅任議員がある)[23]。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった[24]。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった[25]。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった[26]。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった[27]。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる[28]。特に子爵の場合は旧公家華族だけでなく旧大名華族も小大名だった家がほとんどなので経済状態が芳しくないことが多く議席を欲する者が多かった。研究会幹部だった貴族院議員酒井忠亮子爵も「大学を卒業して傾いていた家運を挽回するのにどうし様かと思った。安月給取りではやっていけない。結局早く(貴族院に入って)研究会の幹部になる外はないと思った」と述懐している。そのため子爵たちの選挙戦は激しいものがあった[29]

伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており[30]、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵17人、子爵70人、男爵56人)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)には伯爵20人、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出された。さらに1925年の加藤高明内閣下の第四次改正では子爵議員の定数を4名削減された。これにより最終的には子爵議員の数は66名となった[31]

貴族院内には爵位ごとに会派が形成されており、子爵議員たちは「研究会」という会派を形成した。「研究会」には勅選議員も多数参加し、院内における最大会派となり、1920年代に大きな力を持った[27]。特に華族議員制度の解体を目指していた加藤高明内閣による貴族院改革案を研究会は常に反対し続けた[32]

子爵家の数は明治17年(1884年)時点では324家(華族家の総数509家)、1902年時点では362家(同789家)、1920年時点では381家(同947家)と漸次増えていったが、これをピークとして、1947年時点では351家(同889家)に減っていた[33]。制度発足時の明治17年(1884年)の段階では子爵家は華族全体の63.7%を占め、男爵家よりもはるかに数が多かったが、その後男爵が急増し、明治40年(1907年)になって子爵家と男爵家の数が同数に並び、この後は男爵家の方が多くなり、上に行くほど少なく下に行くほど多いという綺麗なピラミッド構造となった[34]

1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより子爵位を含めた華族制度は廃止された。

旧公家の子爵家

叙爵内規では「一新前家ヲ興シタル旧堂上」を公家からの子爵位の対象者に定めていた[22]。ただし伯爵以上に該当する家はそちらに叙される。具体的には摂家公爵)と清華家侯爵)を除く堂上家について「大納言迄宣任の例多き」堂上家であれば伯爵位を与えられ、それに該当しない堂上家が子爵位を与えられた。「大納言迄宣任の例多き」の意味については柳原前光の『爵制備考』で解説されており「旧大臣家三家[注釈 3]」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家[注釈 4]」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家[注釈 5]」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家[注釈 6]」のことを指す[35]。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、公家社会ではいったん中納言を辞して大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。この直任の例が一回でもあれば「宣任の例多き」に該当する[36]。そしてこれらに該当しない堂上家が子爵である。以下の家が該当せず堂上家から子爵になった家である[37]

阿野家羽林家・1944年継承者欠く)、綾小路家(羽林家)、池尻家名家)、石山家(羽林家)、五辻家(羽林家)、今城家(羽林家)、入江家(羽林家)、石井家半家)、石野家(羽林家)、植松家(羽林家)、梅小路家(名家)、梅園家(羽林家)、梅溪家(羽林家)、裏辻家(羽林家)、裏松家(名家)、大宮家(羽林家)、大原家(羽林家・後に伯爵)、岡崎家(名家)、小倉家(羽林家)、押小路家(羽林家)、愛宕家(羽林家)、風早家(羽林家)、交野家(名家)、勘解由小路家(名家)、唐橋家(半家)、河鰭家(羽林家)、北小路家(名家・藤原氏北家)、北小路家(半家・大江氏)、清岡家(半家)、櫛笥家(羽林家)、久世家(羽林家)、倉橋家(半家・1919年に女戸主)、桑原家(半家・1919年返上)、五条家(半家)、桜井家(羽林家)、沢家(半家・後に伯爵)、慈光寺家(半家)、七条家(羽林家)、芝山家(名家)、持明院家(羽林家)、白川家(半家)、園池家(羽林家)、高丘家(羽林家)、高倉家(半家)、高辻家(半家)、高野家(羽林家・1912年返上)、高松家(羽林家)、竹内家(半家)、竹屋家(名家)、千種家(羽林家)、土御門家(半家)、堤家(名家)、富小路家(半家)、外山家(名家)、豊岡家(名家)、中園家(羽林家)、長谷家(名家)、難波家(羽林家)、西大路家(羽林家)、錦織家(半家)、錦小路家(半家)、西洞院家(半家)、西四辻家(羽林家)、野宮家(羽林家)、萩原家(半家)、八条家(羽林家)、花園家(羽林家)、東園家(羽林家)、東坊城家(半家)、樋口家(半家)、日野西家(名家)、平松家(名家)、藤井家(半家)、藤谷家(羽林家)、藤波家(半家)、伏原家(半家)、舟橋家(半家)、穂波家(名家・1905年返上)、堀河家(半家・1944年継承者欠く)、町尻家(羽林家)水無瀬家(羽林家)、壬生家(羽林家・後伯爵)、三室戸家(名家)、武者小路家(羽林家)、藪家(羽林家)、山井家(羽林家)、山本家(羽林家)、吉田家(半家)、冷泉家(羽林家)、六条家(羽林家)、六角家(羽林家)

羽林家や旧家であることが伯爵の条件かのように説明する俗説もあるが誤りである[38]。叙爵内規は羽林家名家半家、あるいは旧家新家の区別で爵位の基準を定めていない。半家からは伯爵家が出ておらず、全て子爵家になっているが、これは半家がすべて非藤原氏であり、公家社会における家格が低く、極官もせいぜい各省の長官(卿)だったので、叙爵内規の定める条件を満たすことができなかったのが原因である。半家は伯爵になれないとか、藤原氏でないと伯爵以上にはなれないという定めがあったわけではない点には注意を要する[39]。また旧家の方が新家より伯爵輩出率は高いが、それは単に家の歴史が長いので大納言直任の機会が多いというだけのことであり、新家は伯爵になれないなどという定めがあったわけではない[39]

旧大名の子爵家

叙爵内規では「旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家」を旧大名からの子爵位の対象者と定めていた[22]。5万石未満の基準は表高ではなく現米(現に藩が徴収した米の量)である点に注意を要する[40]。1869年(明治2年)2月15日の行政官の沙汰で各藩は政府に現米を申告しており、それに基づき1870年(明治3年)に太政官が現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位ランク基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府の費用負担の各藩の分担の基準として各藩に申告させたものであり、それが後に叙爵内規を定める際の爵位ランク基準にも流用されたものである。したがって現米の基準時は1869年(明治2年)の行政官の沙汰があった時点である[41]。以下の家が大名から子爵に列せられた家である[37]

摂津麻田藩青木家(現米4792石)、丹波篠山藩青山家(現米3万6320石)、美濃郡上藩青山家(現米1万5970石)、陸奥三春藩秋田家(現米1万2580石)、日向高鍋藩秋月家(現米1万6770石)、上野館林藩秋元家(現米3万7450石)、下野喜連川藩足利家(現米1930石)、陸奥棚倉藩阿部家(現米1万140石)、上総佐貫藩阿部家(現米4470石)、下野吹上藩有馬家(現米3530石、1943年返上)、越前丸岡藩有馬家(現米1万7360石)、陸奥磐城平藩安藤家(現米6760石)、武蔵岡部藩安部家(現米5940石、1946年継嗣襲爵せず)、越後与板藩井伊家(現米7190石)、備中岡山新田(生坂)藩池田家(現米5680石)、備中岡山新田(鴨方)藩池田家(現米9220石)、因幡鳥取新田西舘藩池田家(現米1万3250石)、因幡鳥取新田東館藩池田家(現米8830石)、伊勢亀山藩石川家(現米2万4450石。1887年返上・1899年再叙爵)、常陸下館藩石川家(現米7910石)、備中高梁藩板倉家(現米8570石)、上野安中藩板倉家、陸奥重原藩板倉家(現米8880石)、備中庭瀬藩板倉家(現米1万470石)、近江西大路藩市橋家(現米6710石)、日向飫肥藩伊東家(現米2万3340石)、備中岡田藩伊東家(現米7750石)、志摩鳥羽藩稲垣家(現米1万2920石)、近江山上藩稲垣家、豊後臼杵藩稲葉家(現米3万5270石)、山城淀藩稲葉家(現米4万3780石)、安房館山藩稲葉家(現米3498石)、遠江鶴舞藩井上家(現米2万4150石)、常陸下妻藩井上家(現米2090石)、下総高岡藩井上家(現米3540石)、出羽亀田藩岩城家(現米1万2200石)、出羽米沢新田藩上杉家(現米2926石。1944年継嗣襲爵せず)、大和高取藩植村家(現米1万2700石)、下総小見川藩内田家(現米2710石)、三河西大平藩大岡家(現米3250石)、武蔵岩槻藩大岡家(現米8880石)、相模小田原藩大久保家(現米2万3410石)、相模荻野山中藩大久保家(現米4660石)、下野烏山藩大久保家(現米7530石)、上総大多喜藩大河内家(現米7280石)、三河豊橋藩大河内家(現米2万6200石)、上野高崎藩大河内家(現米3万3110石)、下野黒羽藩大関家(現米5340石)、遠江松尾藩太田家(現米1万9540石)、下野大田原藩大田原家(現米2528石)、肥前大村藩大村家(現米2万3060石。後伯爵)、播磨安志藩小笠原家(現米4560石)、豊前千束藩小笠原家(現米4800石)、肥前唐津藩小笠原家(現米2万9423石)、越前勝山藩小笠原家(現米7260石)、和泉岸和田藩岡部家(現米3万4090石)、豊後府内藩大給家(現米1万4160石)、信濃龍岡藩大給家(現米5140石。後伯爵)、越後村松藩奥田家(現米2万690石)、信濃須坂藩奥田家(現米4330石)、越後椎谷藩奥田家(現米4390石)、出羽天童藩織田家(現米7650石)、丹波柏原藩織田家(現米9190石)、大和芝村藩織田家(現米5210石)、大和柳本藩織田家(現米6600石)、大和小泉藩片桐家(現米5590石)、近江水口藩加藤家(現米1万1710石)、伊予大洲藩加藤家(現米3万476石)、伊予新谷藩加藤家(現米4890石)、上総一宮藩加納家(現米5470石)、石見津和野藩亀井家(現米3万753石。後伯爵)、周防岩国藩吉川家(男爵から陞爵)、備中足守藩木下家(現米1万520石)、豊後日出藩木下家(現米1万280石)、讃岐丸亀藩京極家(現米3万3120石)、讃岐多度津藩京極家(現米7400石)、但馬豊岡藩京極家(現米5380石)、丹後峰山藩京極家(現米6030石)、摂津三田藩九鬼家(現米1万5290石)、丹波綾部藩九鬼家(玄米7160石)、下総関宿藩久世家(現米1万5550石)、丹波福知山藩朽木家(現米1万3330石)、豊後森藩久留島家(現米6100石)、筑前秋月藩黒田家(現米2万800石)、上総久留里藩黒田家(現米1万1126石)、丹波園部藩小出家(現米1万3530石)、肥前福江藩五島家(現米6460石。1945年襲爵せず)、出羽松山藩酒井家、上野伊勢崎藩酒井家(現米5510石)、安房加知山藩酒井家(現米4280石。1899年返上)、越前鞠山藩酒井家(現米4950石)、越後高田藩榊原家(現米4万8410石)、肥後人吉藩相良家(現米2万5090石。1946年返上)、摂津尼崎藩桜井家(現米2万7670石)、出羽久保田新田藩佐竹家(現米1万1910石)、信濃松代藩真田家(現米3万7150石。後伯爵)、日向佐土原藩島津家(現米1万8130石。後伯爵)、常陸麻生藩新庄家(現米4710石)、信濃高島藩諏訪家(現米1万6070石)、備中新見藩関家(現米6510石)、但馬出石藩仙石家(現米1万3840石)、陸奥中村藩相馬家(現米3万4610石)、河内丹南藩高木家(現米6600石)、駿河小島藩滝脇家(現米3560石)、播磨林田藩建部家(現米6420石。1947年返上)、陸奥三池藩立花家(現米4130石)、伊予吉田藩伊達家(現米1万4730石)、丹波山家藩谷家(現米4389石)、遠江小久保藩田沼家(現米4400石。1920年返上)、陸奥一関藩田村家(現米1万1210石)、陸奥黒石藩津軽家(現米8020石)、常陸土浦藩土屋家(現米2万8380石)、下総古河藩土井家(現米2万5710石)、三河刈谷藩土井家(現米7090石。1946年継嗣襲爵せず)、越前大野藩土井家(現米1万2630石)、近江三上藩東家(現米5200石)、伊勢久居藩藤堂家(現米2万3240石、1947年継嗣襲爵せず)、美濃苗木藩遠山家(現米4920石)、上野沼田藩土岐家(現米1万5110石)、出羽新庄藩戸沢家(現米2万6070石)、信濃松本藩戸田家(現米3万6850石)、下野宇都宮藩戸田家(現米1万8830石)、下野足利藩戸田家(現米2700石)、下野曾我野藩戸田家(現米3720石)、三河野村藩戸田家(現米3900石)、下野壬生藩鳥居家(現米1万170石)、越後村上藩内藤家(現米2万9480石)、信濃高遠藩内藤家(現米1万5330石)、信濃岩村田藩内藤家(現米4300石)、日向延岡藩内藤家(現米2万8906石)、三河挙母藩内藤家(現米6710石)、陸奥湯長谷藩内藤家(現米3260石)、大和櫛羅藩永井家(現米4550石)、摂津高槻藩永井家(現米1万7440石)、美濃加納藩永井家(現米1万3050石)、尾張犬山藩成瀬家(男爵から陞爵)、肥前蓮池藩鍋島家(現米2万430石)、肥前小城藩鍋島家(現米2万7372石)、肥前鹿島藩鍋島家(現米9895石。1947年返上)、陸奥八戸藩南部家(現米9440石)、陸奥七戸藩南部家(現米1620石)、遠江横須賀藩西尾家(現米1万4570石)、陸奥二本松藩丹羽家(現米1万2860石)、播磨三草藩丹羽家(現米4840石。1940年女戸主)、下総多胡藩久松家(現米2750石)、伊予今治藩久松家(現米2万2720石)、伊勢菰野藩土方家(現米5720石)、播磨小野藩一柳家(現米5280石)、伊予小松藩一柳家(現米4830石)、河内狭山藩北条家(現米5470石)、上総飯野藩保科家(現米7500石)、肥後宇土藩細川家(現米1万2990石)、肥後高瀬藩細川家(現米1万3570石。1946年継嗣襲爵せず)、常陸茂木藩細川家(現米3850石)、近江宮川藩堀田家(現米4830石)、下野佐野藩堀田家(現米5290石)、信濃飯田藩堀家(現米1万40石)、美濃高富藩本庄家(現米3220石)、丹後宮津藩本庄家(現米2万7160石)、三河岡崎藩本多家(現米2万1351石)、陸奥泉藩本多家(現米4550石)、播磨山崎藩本多家(現米6680石)、近江膳所藩本多家(現米2万5300石)、三河西端藩本多家(現米3280石)、伊勢神戸藩本多家(現米6670石)、阿波長尾藩本多家(現米1万8939石)、信濃飯山藩本多家(現米1万1970石。1943年継嗣襲爵せず)、備中浅尾藩蒔田家(現米4140石)、加賀大聖寺藩前田家(現米2万8730石)、上野七日市藩前田家(現米2600石)、越後長岡藩牧野家(現米1万500石)、越後嶺岡藩牧野家、常陸笠間藩牧野家(現米2万5180石)、丹後舞鶴藩牧野家(現米1万6750石)、信濃小諸藩牧野家(現米1万20石)、伊勢長島藩増山家(現米7390石)、武蔵川越藩松井家、(現米2万1660石)丹波亀岡藩松平家(現米2万8380石)、肥前島原藩松平家(現米4万5120石)、豊後杵築藩松平家(現米2万1040石)、出羽上山藩松平家(現米1万480石。1908年返上)、信濃上田藩松平家(現米2万2808石)、三河西尾藩松平家(現米2万3190石)、美濃岩村藩松平家(現米1万3270石)、伊勢桑名藩松平家(現米2万3450石)、美作津山藩松平家(現米4万3120石)、越後清崎藩松平家(現米5520石)、出雲広瀬藩松平家(現米1万4390石)、出雲母里藩松平家(現米5353石)、播磨明石藩松平家(現米4万3470石)、陸奥斗南藩松平家(現米7380石)、美作鶴田藩松平家(現米2万660石)、美濃高須藩松平家(現米6630石。1947年継嗣襲爵せず)、伊予西条藩松平家(現米1万8190石)、陸奥松川藩松平家、常陸石岡藩松平家(現米5260石。1945年継嗣襲爵せず)、常陸宍戸藩松平家(現米1890石)、武蔵忍藩松平家(現米4万2070石)、上野小幡藩松平家(現米4170石)、蝦夷渡島館藩松前家(現米2万3300石。1944年継承者欠く)、肥前平戸新田藩松浦家、越前鯖江藩間部家(現米1万4960石。1943年返上)、美作勝山藩三浦家(現米1万1930石)、下総結城藩水野家(現米4840石)、上総菊間藩水野家(現米1万9260石)、上総鶴牧藩水野家(現米7040石)、出羽朝日山藩水野家(現米1万7500石)、三河田原藩三宅家(現米5740石)、長門長府藩毛利家(現米3万9972石)、長門清末藩毛利家(現米7600石)、周防徳山藩毛利家(現米2万1410石)、豊後佐伯藩毛利家(現米1万2210石)、播磨赤穂藩森家(現米1万730石)、播磨三日月藩森家(現米8390石)、下総生実藩森川家(現米4030石)、大和柳生藩柳生家(現米5710石)、越後黒川藩柳沢家(現米4760石)、越後三日市藩柳沢家(現米4810石)、土佐高知新田藩山内家(現米4720石)、常陸牛久藩山口家(現米3700石)、上野吉井藩吉井家(現米2160石)、常陸龍ヶ崎藩米津家(現米3320石)、武蔵六浦藩米倉家(現米2700石。1937年女戸主)、出羽本荘藩六郷家(現米1万3270石。1941年返上)、播磨龍野藩脇坂家(現米2万7776石)、近江大溝藩分部家(現米6730石。1902年返上)、和泉伯太藩渡辺家(現米6070石)

1869年(明治2年)の華族制度発足の際の大名からの華族取り立ての判断基準は表高1万石以上の知行地を持つ者のことだったが、下野国喜連川藩足利家(旧喜連川家)は表高5000石だったのにもかかわらず、江戸時代には大名扱いだったため華族に列していた。子爵の内規に付けられている「一新前旧諸侯タリシ家」という文言は足利家を入れるために付けられたものである[42]御三家付家老周防国岩国藩吉川家陪臣扱いだったため、当初は男爵だったが、吉川家と成瀬家については1891年(明治24年)に子爵に陞爵している[43]。また現米の基準となるのは1869年(明治2年)に各藩から政府に申告された数値に基づくので戊辰戦争によって陸奥会津藩表高23万石から陸奥斗南藩表高3万石(現米7380石)に減知転封となった松平家も子爵家に含まれる。減封がなければ恐らく現米5万石以上で伯爵家だったと思われるが、賊藩であることからストレートに子爵になったわけではない点に注意を要する。つまり「賊藩→罰として子爵」ではなく「賊藩→罰として減封→現米減少→子爵」である。爵位基準はあくまで現米のみによって機械的に決定されるもので、罰の要素が入り込む余地はない[44]。他の旧大名子爵家の中にも戊辰戦争の結果減封になった家はあるが、それらは減封がなくとも現米5万石以上に達するのはまず無理だったのでどっちにしても子爵家だったと思われる[45]。例外として上総請西藩林家は戊辰戦争後に表高1万石から300石に減知となって大名の地位を失っていたため当初は叙爵がなく、1893年(明治26年)になってから特旨により男爵を受けている[46]。また、安芸広島新田藩浅野家は華族になった後に本藩の広島藩に合併され、その際に当主が華族の地位を返上したため華族令が出た際には華族でなくなっていた。そのため叙爵がなかった。石高偽装がばれて華族身分を剥奪された元高家旗本堀江藩大沢家も当然叙爵はなかった。1869年(明治2年)の華族制度発足から1884年(明治17年)の華族令公布までの間に華族でなくなっていたのはこの2家のみである[47]

勲功による子爵家

叙爵内規で他の爵位と同様に「国家二勲功アル者」が受爵対象に定められていた[22]。以下の家が勲功により子爵に叙された[37]

青木家石井家(男爵から陞爵)、石黒家(男爵から陞爵・1941年継嗣襲爵せず)、伊集院家伊東祐麿家伊東祐了家(後伯爵)、伊東巳代治家(男爵から陞爵・後伯爵)、井上毅家井上勝家井上良馨家(男爵から陞爵)、岩下家上原家(男爵から陞爵)、内田家(男爵から陞爵。後に伯爵)、榎本家大浦家(男爵から陞爵)、大久保家大迫貞清家大迫尚敏家(男爵から陞爵)、大島久直家(男爵から陞爵)、大島義昌家(男爵から陞爵)、岡沢家(男爵から陞爵)、小川家(男爵から陞爵)、海江田家香川家(後伯爵)、桂家(後に公爵)、加藤高明家(男爵から陞爵・後に伯爵)、加藤友三郎家(男爵から陞爵)、金子家(男爵から陞爵。後に伯爵)、樺山家(後伯爵)、川上家(1934年女戸主)、河瀬家河田家河野家(1922年継承者欠く)、川村家(男爵から陞爵)、清浦家(男爵から陞爵・後に伯爵)、清岡家栗野家(男爵から陞爵)、黒田家児玉家(男爵から陞爵・後伯爵。1947年継嗣襲爵せず)、後藤家(男爵から陞爵・後に伯爵)、斎藤家(男爵から陞爵)、阪谷家(男爵から陞爵)、税所家実吉家(男爵から陞爵)、佐野家佐久間家(男爵から陞爵・後伯爵)、滋野家(1924年継嗣襲爵せず)、宍戸家品川家渋沢家(男爵から陞爵)、杉家末松家(男爵から陞爵)、曾我家曾禰家(男爵から陞爵)、高島家(1943年継承者欠く)、高橋家(男爵から陞爵)、田尻家(男爵から陞爵)、立見家(男爵から陞爵)、田中不二麿家田中光顕家(後伯爵・1946年返上)、谷家珍田家(男爵から陞爵。後に伯爵)、寺内家(後に伯爵)、鳥尾家中牟田家西家(男爵から陞爵)、仁礼家(1945年継嗣襲爵せず)、野津家(後侯爵)、野村家橋本家(男爵から陞爵)、長谷川家(男爵から陞爵)、波多野家(男爵から陞爵)、花房家(男爵から陞爵)、浜尾家(男爵から陞爵)、林董家(男爵から陞爵。後に伯爵)、林友幸家(後伯爵)、土方家(後伯爵・1934年返上)、平田家(男爵から陞爵・後に伯爵)、福岡家福羽家本野家(男爵から陞爵)、牧野家(男爵から陞爵。後に伯爵)、三浦家三島家陸奥家(後に伯爵・1947年返上)、森家三好家山内家(男爵から陞爵)、山尾家山岡家(1943年女戸主)、山口家(男爵から陞爵)、山地家(男爵から陞爵)、由利家芳川家(後に伯爵)、吉田家渡辺国武家渡辺千秋家(男爵から陞爵)、渡辺昇家(1944年継嗣襲爵せず)

高位華族の分家の子爵家

明治以降に分家した華族は「一新後華族に列せられたる者」という叙爵内規によって男爵を授爵されるのが基本であったが、本家が高い爵位を持っている場合には特例[48]として子爵位が与えられることがあった(ただし公侯爵の分家でも大半は男爵である)。子爵を与えられた分家華族としては、近衛秀麿家(公爵近衛家分家)、徳川武定家(松戸徳川家)(侯爵水戸徳川家分家)、松平慶民家(侯爵越前松平家分家)の3家がある。また、岩倉具経家(公爵岩倉家分家)、長岡護美家(侯爵細川家分家(長岡家))、山内豊尹家(侯爵山内家分家)の3家も陞爵して子爵が与えられている[49]

主な日本の子爵

朝鮮貴族の子爵

日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった[50][51]

朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが[50]、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた[52]

朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち子爵に叙されたのは李完鎔、李埼鎔、朴斉純高永喜趙重応閔丙奭、李容稙、金允植権重顕、李夏栄、李根沢宋秉畯、任善準、李載崐、尹徳栄、趙民煕、李秉武、李根命、閔泳韶、閔泳徽、金声根の22名である[51]。現代韓国で「親日売国奴」の代名詞となっている「乙巳五賊」のうち4人、「丁未七賊」のうち6人が子爵に叙されている[51]。中でも宋秉畯は最大の親日反民族主義者として併合後も日本とのパイプ役を務め続け、その功績で伯爵に陞爵。野田姓に創氏改名し「野田伯」と称された[53](朝鮮貴族で創氏改名する者は稀だった[54])。一方、李容稙と金允植は併合後、反日民族主義者となり、1919年三・一独立運動で韓国独立を請願したために爵位剥奪処分となった。彼らや受爵を拒絶したり返却した者らはたとえ日韓併合時に「親日売国」行為があったとしても現代韓国で高く評価される傾向がある[55]

1944年時点で朝鮮貴族の子爵家の数は当初の22家から17家に減っていた(朝鮮貴族家の総数も当初の76家から59家に減少していた)[56]


イギリスの子爵

英国子爵の紋章上の冠。

イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドに持ち込まれるようになったのが誕生のきっかけである[57]

子爵(Viscount)は爵位の中でも最後に生まれたものであり、1440年に第6代ボーモント男爵英語版ジョン・ボーモント英語版ボーモント子爵英語版位が与えられたのが最初である[58]

イングランド王国スコットランド王国アイルランド王国それぞれに貴族制度があり、それぞれをイングランド貴族スコットランド貴族アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても子爵位は第4位として存在する。スコットランド貴族以外の子爵位は他の爵位と違って爵位名にofがつかないという特徴がある(例えばヘレフォード子爵は「Viscount Hereford」であり「Viscount of Hereford」ではない)。

侯爵から男爵までの貴族は「卿(Lord)」と尊称される(公爵は「閣下(Your Grace)」)[59]。子爵の息子及び娘にはHonorable(オナラブル)が敬称として付けられる。

英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった[60]

有爵者は貴族院議員になりえる。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族アイルランド貴族貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない[61]

現存する子爵家

イングランド貴族

  1. ヘレフォード子爵 (1550年) デヴァルー家

スコットランド貴族

  1. フォークランド子爵 (1620年) ケーリー家
  2. アーバスノット子爵 (1641年) アーバスノット家
  3. オックスファード子爵英語版 (1651年) マクギル家

グレートブリテン貴族

  1. ボリングブルック子爵 (1712年)/シンジョン子爵 (1716年) シンジョン家
  2. コバム子爵 (1718年) リトルトン家
  3. ファルマス子爵 (1720年) ボスコーエン家
  4. トリントン子爵 (1721年) ビング家
  5. フッド子爵 (1796年) フッド家

アイルランド貴族

  1. ゴーマンストン子爵英語版 (1478年) プレストン家
  2. マウントガーレット子爵英語版 (1550年) バトラー家英語版
  3. ヴァレンティア子爵 (1622年) アンズリー家
  4. ディロン子爵英語版 (1622年) ディロン家
  5. マセリーン子爵英語版 (1660年)/フェラード子爵英語版 (1797年) スケフィントン家
  6. シャールモント子爵英語版 (1665年) コールフィールド家
  7. ダウン子爵英語版 (1680年) ドーネイ家
  8. モールスワース子爵英語版 (1716年) モールスワース家
  9. チェットウィンド子爵英語版 (1717年) チェットウィンド家
  10. ミドルトン子爵 (1717年) ブロデリク家
  11. ボイン子爵 (1717年) ハミルトン=ラッセル家英語版
  12. ゲージ子爵英語版 (1720年) ゲージ家
  13. ゴールウェイ子爵 (1727年) モンクトン=アランデル家
  14. ポーズコート子爵 (1744年) ウィンフィールド家
  15. アシュブロック子爵英語版 (1751年) フラワー家
  16. サウスウェル子爵英語版 (1776年) サウスウェル家
  17. ド・ベスチ子爵英語版 (1776年) ヴィージー家
  18. リフォード子爵英語版 (1781年) ヒューイット家
  19. バンガー子爵英語版 (1781年) ウォード家
  20. ドナレイル子爵英語版 (1785年) セント・レジャー家英語版
  21. ハーバートン子爵英語版 (1791年) ポメロイ家英語版
  22. ハワーデン子爵 (1793年) モード家
  23. マンク子爵 (1801年1月) マンク家
  24. ゴート子爵 (1816年) ヴェレカー家

連合王国貴族

  1. セント・ヴィンセント子爵英語版 (1801) ジャービス家
  2. メルヴィル子爵 (1802) ダンダス家
  3. シドマス子爵 (1805年) アディントン家
  4. エクスマス子爵 (1816) ペルー家
  5. コンバーミア子爵英語版 (1827) ステイプルトン=コットン家
  6. ヒル子爵英語版 (1842) クレッグ=ヒル家
  7. ハーディング子爵 (1846) ハーディング家
  8. ゴフ子爵 (1849年) ゴフ家
  9. ブリッドポート子爵 (1868) ネルソン・フッド家
  10. ポートマン子爵 (1873) ポートマン家
  11. ハムデン子爵英語版 (1884) ブランド家
  12. ハンブルデン子爵英語版 (1891) スミス家
  13. ナッツフォード子爵英語版 (1895) ホランド=ヒバート家
  14. イーシャー子爵 (1897) ブレット家
  15. ゴッシェン子爵 (1900年) ゴッシェン家
  16. リドレー子爵 (1900) リドレー家
  17. クーロスのコルヴィル子爵 (1902) コルヴィル家
  18. セルビー子爵英語版 (1905) ガリー家
  19. ノールズ子爵 (1911) ノールズ家英語版
  20. アレンデール子爵英語版 (1911) ボーモント家英語版
  21. チルストン子爵英語版 (1911)エイカーズ=ダグラス家
  22. スカーズデール子爵 (1911) カーゾン家
  23. マージー子爵 (1916) ビンガム家
  24. カウドレー子爵 (1917) ピアソン家
  25. デヴォンポート子爵 (1917) キアリー家
  26. アスター子爵 (1917) アスター家
  27. ウィンボーン子爵英語版 (1918) ゲスト家英語版
  28. セント・デイヴィッズ子爵 (1918) フィリップス家
  29. ロザミア子爵 (1919) ハームズワース家
  30. アレンビー子爵 (1919) アレンビー家
  31. チェルムスファド子爵 (1921) セシジャー家
  32. ロング子爵英語版 (1921) ロング家
  33. アルスウォーター子爵 (1921) ラウザー家英語版
  34. レッキーのヤンガー子爵 (1923) ヤンガー家
  35. ベアーステッド子爵英語版 (1925) サミュエル家
  36. クレイガヴォン子爵英語版 (1927) クレイグ家
  37. ブリッジマン子爵 (1929) ブリッジマン家
  38. ヘイルシャム子爵 (1929) ホッグ家
  39. ブレントフォード子爵英語版 (1929) ジョインソン=ヒックス家
  40. バックマスター子爵英語版 (1932) バックマスター家
  41. ブレディスロー子爵 (1935) バサースト家
  42. ハンワース子爵 (1936) ポロック家英語版
  43. トレンチャード子爵 (1936) トレンチャード家
  44. サミュエル子爵 (1937) サミュエル家
  45. ドックスフォードのランシマン子爵英語版 (1937) ランシマン家
  46. デイヴィッドソン子爵英語版 (1937) デイヴィッドソン家
  47. ヴィアー子爵英語版 (1938) ヴィアー家
  48. カルデコート子爵英語版 (1939) インスキップ家
  49. サイモン子爵 (1940) サイモン家
  50. キャムローズ子爵 (1941) ベリー家
  51. スタンズゲート子爵 (1942) ベン家
  52. マーゲッソン子爵 (1942) マーゲッソン家
  53. ダヴェントリー子爵 (1943) フィッツロイ家
  54. アディソン子爵 (1945) アディソン家
  55. ケムズリー子爵 (1945) ベリー家
  56. マーチウッド子爵英語版 (1945) ペニー家
  57. アラメインのモントゴメリー子爵 (1946) モントゴメリー家
  58. ウェイヴァーリー子爵 (1952) アンダーソン家英語版
  59. サーソー子爵 (1952) シンクレアー家英語版
  60. ブルックバラ子爵 (1952) ブルック家
  61. ノリッジ子爵英語版 (1952) クーパー家
  62. レザーズ子爵英語版 (1954) レザーズ家
  63. ソウルベリー子爵 (1954) ラムザバザム家
  64. シャンドス子爵 (1954) リトルトン家
  65. マルバーン子爵英語版 (1955) ハギンズ家
  66. ド・リール子爵 (1956) シドニー家
  67. ブレンチリーのモンクトン子爵英語版 (1957) モンクトン家
  68. テンビー子爵 (1957) ロイド・ジョージ家
  69. ハリファックスのマッキントッシュ子爵英語版 (1957) マッキントッシュ家
  70. ダンロッシル子爵 (1959) モリソン家
  71. フィンドホーンのステュアート子爵英語版 (1959) ステュアート家
  72. ロッチデール子爵英語版 (1960) ケンプ家
  73. スリム子爵 (1960) スリム家
  74. ヘッド子爵英語版 (1960) ヘッド家
  75. マートンのボイド子爵英語版 (1960) レノックス=ボイド家
  76. ミルズ子爵英語版 (1962) ミルズ家
  77. ブレイクナム子爵 (1963) ヘア家
  78. エクルズ子爵 (1964)エクルズ家
  79. ディルホーン子爵 (1964) マニンガム=ブラー家

伯爵以上の貴族が従属爵位として持つ子爵位

廃絶した子爵位


スペインの子爵

スペインの子爵の紋章上の冠

王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、子爵は第4位である[62][63]。爵位の大半は伯爵以上であり、子爵以下は数が少ない[62]。子爵位にはグランデの格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる[63]

伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる[63]。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない[63]。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる[63]。爵位の継承には所定の料金がかかる[63]

歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国アラゴン連合王国ナバーラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり[64]、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた[65]。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した[65]

1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが[66]1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ[63][67]、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった[63]。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。

現存する子爵位

スペイン貴族には現在141個の子爵位が存在し、うち2個がグランデの格式を有する。


脚注

注釈

[脚注の使い方]
  1. ^ 聖職者である教会や修道院、司教区が踏みこめない世俗的な行為(軍事行動ほか)を任されたり、それらの機関に用地を貸したりした領主。ウィクショナリー(フランス語)参照。
  2. ^ 『華族令要覧』によると、主な内容は次のとおり(表記は常用漢字)。
    *「第一 総規 §公卿諸侯ノ称ヲ廃シ改テ華族ト称ス/21p」「同 §華族令/21p」「同 §戸主ニ非サル者爵ヲ授ケラレタル場合ニ関スル法律/42p」
    *「第二 授爵叙位 §授爵の詔勅/44p」「同 §授爵ノ順序/44p」「同 §叙位条例/44p」。
    以下、「第三 華族戒飭(かいちょく)令 (0029.jp2-)」「第四 華族世襲財産法/(0031.jp2)-」「第五 華族就学規則/(0054.jp2-)」、「第六 宗秩寮審議会並學習院評議会官規/(0063.jp2-)」。
  3. ^ 嵯峨家三条西家中院家
  4. ^ 油小路家正親町家勧修寺家烏丸家甘露寺家滋野井家清水谷家清閑寺家園家中御門家中山家(中山家は結局伯爵を経ずに侯爵になっている)、庭田家橋本家葉室家日野家広橋家坊城家松木家万里小路家室町家柳原家鷲尾家
  5. ^ 飛鳥井家四条家冷泉家
  6. ^ 姉小路家山科家

出典

  1. ^ 新村出 2011, p. 1124.
  2. ^ 松村明 2006, p. 1093.
  3. ^ 新村出[1]および松村明[2]参照。
  4. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 2-3.
  5. ^ a b 石黒ひさ子 2006, p. 3.
  6. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 5.
  7. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 4.
  8. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 6.
  9. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 9.
  10. ^ a b 袴田郁一 2014, p. 86-87.
  11. ^ 袴田郁一 2014, p. 95.
  12. ^ 今堀誠二, p. 422-423.
  13. ^ a b 袴田郁一 2014, p. 85.
  14. ^ 小田部雄次 2006, p. 13.
  15. ^ 小田部雄次 2006, p. 21.
  16. ^ 浅見雅男 1994, p. 71-76.
  17. ^ 小田部雄次 2006, p. 26.
  18. ^ 居相正広 1925, p. 21.
  19. ^ 居相正広 1925, p. 44.
  20. ^ 小田部雄次 2006, p. 30.
  21. ^ 居相 1925, p. 45「第二 授爵叙位 §授爵ノ順序」
  22. ^ a b c d 百瀬孝 1990, p. 242.
  23. ^ 百瀬孝 1990, p. 37.
  24. ^ 百瀬孝, 1990 & p37-38.
  25. ^ 百瀬孝, 1990 & p37/38/243.
  26. ^ 小田部雄次 2006, p. 195-196.
  27. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 45.
  28. ^ 浅見雅男 1994, p. 116.
  29. ^ 内藤一成 2008, p. 109-110.
  30. ^ 百瀬孝 1990, p. 38.
  31. ^ 小田部雄次 2006, p. 184/191-195.
  32. ^ 小田部雄次 2006, p. 195.
  33. ^ 小田部雄次 2006, p. 56.
  34. ^ 浅見雅男 1994, p. 153.
  35. ^ 浅見雅男 1994, pp. 117-118.
  36. ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
  37. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 327-339.
  38. ^ 浅見雅男 1994, p. 119.
  39. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 120.
  40. ^ 浅見雅男 1994, p. 111.
  41. ^ 浅見雅男 1994, p. 87.
  42. ^ 小田部雄次 2006, p. 147.
  43. ^ 浅見雅男 1994, p. 35-36.
  44. ^ 浅見雅男 1994, pp. 112/147-150.
  45. ^ 浅見雅男 1994, p. 149.
  46. ^ 小田部雄次 2006, p. 346.
  47. ^ 浅見雅男 1994, p. 66.
  48. ^ 居相 1925, pp. 42-43「第一 總規 §戸主ニ非サル者爵ヲ授ケラレタル場合ニ關スル法律」
  49. ^ 小田部雄次 2006, p. 339-341.
  50. ^ a b 百瀬孝 1990, p. 244.
  51. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 162.
  52. ^ 小田部雄次 2006, p. 163/166.
  53. ^ 小田部雄次 2006, p. 172.
  54. ^ 百瀬孝 1990, p. 245.
  55. ^ 小田部雄次 2006, p. 164-171.
  56. ^ 小田部雄次 2006, p. 173.
  57. ^ 小林(1991) p.16-17
  58. ^ 森(1987) p.5-6
  59. ^ 森(1987) p.15
  60. ^ 前田英昭 1976, p. 46-58.
  61. ^ 田中嘉彦 2009, p. 279/290.
  62. ^ a b 坂東省次 2013, p. 68.
  63. ^ a b c d e f g h Noble Titles in Spain and Spanish Grandees
  64. ^ 関哲行, 中塚次郎 & 立石博高 2008, p. 315.
  65. ^ a b 関哲行, 中塚次郎 & 立石博高 2008, p. 370.
  66. ^ https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf
  67. ^ https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512



参考文献

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関連項目





ソース


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